緑のルーペ『こいのことば』 感想


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↑昨日の記事

アドベントカレンダー内での企画として、自分と、ソーシャルゲームでのプレイヤーネームが『自分』の男と、自分のことを桐間紗路だと思い込んでいた哀しい過去を持つ異常成人男性の三人で、相互に課題図書を指定し、読書感想文を書いてゆく。

今回は自分のターンで、課題図書は緑のルーペ氏の『こいのことば』。図書の指定者はソーシャルゲームでのプレイヤーネームが『自分』の男である。「ゲーテと小児性愛者の男が出る漫画のどっちがいい?」と言われて「疾風怒濤の気分じゃないから小児性愛者で」といった感じの温度感で選定された。

さて、広く世に知られる通り、筆者は清純派としてインターネットを運用しており、エロについても「俺はKomifloに加入してないからfantiaとfanboxを解約してるが、お前は?」というあまりにも修辞学的に美しいマウントを取り、日々インターネットからチンバキ野郎共を排斥する立場にあるため、ワニマガジン社に縁のある作家以外あまり知らないのだが、購入時に課題図書が18禁であることに気づき歓喜の叫び声を挙げた。

えっちなもの大好き!

では、本題に入る前に本書の構成を確認しておくと、連続して話が展開する13話で構成された、一冊もののストーリーである。このうち本稿では話の内容を掴むために途中の5話まで概略を著したのち、全体の経過を軽く述べつつ、所感を数行ほど記す予定だ。

それではやっていこう。

第1話『行ってきまーす!』

インターネットには「女子高生とのロマンスを夢見る/ロマンスをテーマにした作品を愛好するアラサーの成人男性は情けない」という格言があり、そこで揶揄されているものは女子高生の象徴する青春といった若さやそれの有する肉感的な響きを求める一方で、またそういった存在に大人として接したいという欲望を持つどこか歪んだ成人男性たちである。

あなたの身の回りにもいるだろう。ブルーアーカイブをプレイし、日夜ムツキでムチュムチュ体操に励んだり、月雪ミヤコの父親を自称したりする人々が。(なお、筆者はセカイ系を愛好するシナリオ派であるためここからは除外される)

さて、ひるがえって『こいのことば』の話に戻ろう。

主人公の藤之助は、見た目もあまりぱっとしない、気弱で、対人関係も希薄なエロマンガ家で、どこか小汚い賃貸で、どこかわが身に覚えのある倦怠感を感じさせるような生活をしている、まあいい年の大人である。彼は悠里という少女と肉体関係を持っており、半同棲のような状態にある。

この悠里が、なんと中学3年生なのである。この少女が、年相応のみずみずしさをもって藤之助と性的な触れ合いを重ねながらも、学校ではそんなそぶりを見せずに学生生活を送っている。彼はそんな少女に惹かれているものの、ひととコミュニケーションを取ることに不安感を抱いているため、彼女からまっすぐに好意を向けられていても「悠里は優しいから自分の行いを許している」と考えていまい、結局関係が進展する予兆が見受けられない。

ブルーアーカイブチンバキ派が霞むほどの情けなさである。

第2話『それだけで十分嬉しかったんだ』~第4話『悪い人じゃない』

藤之助に関しては上記の情けない状況が続く。

その一方で、悠里の父親は不在で、母親が酒浸りという家庭状況が明かされる一方、その周囲では悠里を好きな男子の存在と、その好意を悠里の親友(そして彼女は、当の男子に片思いをしている)が知るという学生らしい一幕が繰り広げられる。

そして、彼女が藤之助の存在を知り、彼に接触を図ったことを契機に悠里は自分の恋心を見つめ直す。

藤之助の意思が介在しない形で、少しずつ、静かに状況が動きはじめている。

それを踏まえたうえで、次の5話を見てみよう。

第5話『口で、してあげよっか?』

この話は、藤之助が悠里の中学校で行われる文化祭に足を運ぶ場面でスタートする。

悠里は、藤之助に自分が主役として出演する出し者への観劇を求めていて、それに応えた藤之助が中学校を訪ねた、という塩梅だ。

舞台の上の悠里は「テレビの妖精」という体を張った役を演じながらも、そわそわと客席の藤之助を探し、そして手を振る彼を見つけ、顔を赤くし溶けるような笑みをひとり浮かべる。そこにあるものは年相応の少女らしさと、少女特有の時間を充足感に満たされて生きる青春の姿だ。

そうして満ち足りた恋する少女は、中庭で藤之助を見つけ彼に抱きつくと、そのまま周囲に人がいないのを良いことに口を使って性的行為に及んだ。

幸福な空気を残して、第5話は終わる。

そしてそれは、間違いなくこの物語の序盤の終わりでもある。

第6話以降

その後、この話は今までに出てきた要素が組み合わさり、読者の想像と同じ方向性の最悪な展開を迎える。

悠里の親友の少女が、悠里に片思いしていた男子に、中庭での行為を見せるように仕向け、彼女のありきたりなみずみずしい中学生活は崩壊するのだ。

さて、これが通常の愛の話であれば、藤之助と悠里の二人は困難に立ち向かい、なんやかんやで互いの愛する心を確認しつつ、無事に悠里は中学校を卒業するはずだ。

ところが、『こいのことば』ではそのような展開は起こらず、中学校の間、彼女を取り巻く状況は悪化するだけでなにも好転しない。

問題解決のドラマは起こらないから、悠里は中学校を居場所を失ったまま卒業して笑顔をあまり見せない女子高生になるし、悠里の家庭はさっくりと崩壊する。

そうして少女を取り巻く状況が悪化していっても、藤之助は彼女の変化に気づきつつも彼女に向けて一歩を踏み出すことができない。

そこには詰んだ状況特有の閉塞感がある。対人経験のない藤之助は臆病で人間関係を深めるための一歩を踏み出せないからヒロインにとっての救いのヒーローになれない。かといって、なにか状況を好転させる事件が起こることもなく、ラッキーアイテムが手に入るわけでもない。

そういう自分の情けなさに直面したからだろうか、藤之助は希死念慮を抱くようになりはじめる。

ここに弱い成人男性特有の、ある種のリアリティを感じないだろうか?

下手にコミュニケーション能力が低く、スキルもない男が潰しの利かないエロマンガ家という仕事に就いてしまい、惰性のまま続けてきたせいで引き返せない年齢が見えてきた。家の中に引きこもるような生活をしているせいで、ただでさえ問題を抱えた社会性が育つ機会もなく、貯金も少ない。そんな中で、自分を慕ってくれる少女という奇跡のような存在と出会い、依存していくのに、自分が原因で彼女の人生を台無しにして、苦境に手を差し伸べることができなかった。

妙にシンパシーを覚えてしまうような、勇気の欠如がある。

それでもなお、悠里は藤之助に恋することをやめなかった。

これは、この話の中で唯一にして最大のファンタジーだ。

リアリティに満ちた世界の希少なファンタジーは、福音に近い。

現に、この少女の『こいすること』が、人生の袋小路に入り込んでいたように見えたふたりの背中を小さく押し、(ぜひ本作品を紐解いてみてほしいのだが)ある種の安らかなラストへ導くのだ。

所感

この物語のタイトルは『こいのことば』であった。それゆえに、作中では「愛」という一種の双方向性のイメージを一般的に抱かせる信頼関係ではなく、「恋」という一方通行の感情を描くことに作者の力点を感じさせられた。

藤之助と悠里の半同棲の生活の間、二人にあったのは愛ではなかった。父親に似た大人の男に向けた少女の思慕と、灰色の生活の真っただなかに現れた、青い時間を生きる少女を求める男の希望。この互いに噛み合いそうで致命的に噛み合わない双方向の感情を向けあうさまに見出すものは、まさしく恋であるといえるだろう。

そして互いの恋が、お互いを慈しむ感情の重なりあいのような、愛へと変わるとき、すこしだけ歪な人間関係がまっすぐなものになるのではないか。

読後、「愛」のもつ力ではなく「恋」という愛とは違った性質をもつ情念の力について考える時間が、ほんのすこしだけ生まれると思う。


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